またしてもだいぶ古いニュース記事から

バチカン体外受精技術へのノーベル賞に不快感』
http://www.asahi.com/international/update/1005/TKY201010050090.html


あれ?

・・・読んだ人しかわからないネタですみません。


作中でちょうど、バチカンの方々がこのジャンルの話題に触れていて、しかも
そこでは肯定的だったので。


でもまあ少し、意味合いが違うかな。
そして、そのあたりにリアリティを求めるタイプの小説ではないですからね。


生物工学と倫理の問題というのは、確かに一筋縄ではいかない気がします。


体外受精からはだいぶ飛躍しますが、確か昔、専門家の講義で聞いた話。
現代の技術では、中絶された胎児の細胞だか器官だか遺伝子だかを利用して、
その胎児の“生物学上の子供”を誕生させることが可能だそうです。
 
…ちょっと頭が混乱しそうですが。
主に遺伝子という意味での、生物学上の自分の母親が「誕生に至らなかった
胎児」です。
(うろ覚えですが、確か「母親」に限定された話であったと思います)

当然、こうして作り出された“子供”の方は、無事に誕生すれば、遺伝子的
には何ら私達と変わりないヒトとして成長することが可能です。
…「生物学上」は。


ではもしも、彼もしくは彼女が、成長してこの自己の出自について知る
ことになったら?

そこに何が生じるのかは、正直、想像の範疇を超える気がします。


『すべての子供は、少なくとも一定の年齢まで人間として生を歩んだ親
(生物学上の)を持つ』
これは、今の段階では改めて定義するまでもなく、全人類に共通した事実
であり、無意識に深く根差している固定概念。

(「代理母」という仕組みは既に存在しているので、「その親に会った
ことがあるか」「その人物を 知っているか」は一旦別の話として)


生物学的には同じヒト科の遺伝子を有して生まれ育つとしても。

哲学的な「産まれてきた意味」だとか、自分という存在に対する精神的な
認識は、果たしてどんな影響を生じるか。


環境や教育によって、そのような「生物学上の親」の存在云々を意に介さ
ない思想・意識が醸成され得るのか。

そしてもう一つ。

母親(にあたる存在)がこの世に生まれ出なかった理由が、その母親
(自身の生物学上の祖母)による堕胎であるという事実を、彼または彼女は
どう受け止めるのか。

「想像を超える」と思ったのは、そういった「意識」の部分の問題。


世界中でたった一人、「産まれなかった人間から産まれた」子供、なんて、
近未来小説にでもなりそうな題材ですが。
様々な要素を慮ると、やはり「怖い」と思うし、そう思うこと、慎重になる
ことが必要だという気もする。

実験的にでも一度行ってしまえば、そこに1人の人間が生まれ、人類史上誰も
経験したことのない自己認識のもとに生きるしかない人生が始まってしまうから。

「取り消しがきかない」という意味でも、慎重であって欲しいと、思う。


“宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である。”
アインシュタイン

“科学は農薬を生み出すが、それを使うなとは言ってくれない。”
映画『ジュラシック・パーク』より